改めてPATとは。

うちの子(高1と中2)は体育会系のクラブに
入っていました。中2は今でも、高1はこれからどうなるかわかりません。
親は2人とも運動を得意とする方ではないので
わが子ながら意外な感じがしています。
でまた、何を教えられるわけでもないので、
上手ではない。
姉は大会にで出てもあまり勝てないし、
弟もレギュラーの見込みはあまりないのではないかと思います。
でも、やめません。
もしもやめたいといっても反対すると思います。
(それが体罰とか人間関係ならば別ですが、ちょっと考える)
たとえば、レギュラーになれないから。試合に勝てないから。
だとすればそれは本質を見失っていると思うのです。
その練習なり、つらいことを乗り越えるなりという過程にこそ
私は価値があると思っています。
レギュラーになれなくてもいい。全力を尽くして努力すること
乗り越えようという過程。そのために何度も挑戦すること。
それの方が今後の人生を考えたときに価値があると思うのです。
それはきっと時に進歩を生み出すし、成長を伴うものだと思います。
私がP=プロセス。T=トライを標榜するのも教育の価値を
その点においているからです。
その行程を経て、私がかかわるすべての子供たちにA=アチーブメント
折れない心。やる気に満ちてほしいと思っています。
以前も書いたように、勝敗が決まる以上、負けるのは普遍的な光景です。
ある意味当たり前のことを面白くないから、それだけの理由で投げ捨ててしまおう
とする。心が折れてしまう。そんな子供たちにはしていきたくないと
考えています。
たかが学習塾風情が生意気な理念を掲げています。
受験のテクニックのみを教えていればいいのかもしれない。
黙って合格実績のみを重ねればいいのかもしれない。
札幌でそんなことを求める人はいないかもしれないけれど。
そして、その背骨なくして、うちの塾は成り立ちません。
背骨が僕自身にないのであれば、独立なんて、自分の塾なんて
していないと思うのです。
テクニック云々とPATは二律背反するものではない。
札幌の子供たちをPATの考え方で鍛えたいと私は考えています。
札幌市中央区 小中高学習塾 PAT共育ゼミナール

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