教育っておせっかいなのか。PAT共育ゼミナール

先日、生徒と一緒に入試問題を解いておりました。

福岡県の公立高校の入試問題。山極寿一さんの「『サル化』する人間社会」という文が題材だったのですが、

その中に「教育というのは人間ならではなのものです。これはとてもお節介な行為で非常に人間らしいものといえます。頼まれてもいないし望まれてもいないのに助けに行くというところが人間にはあって…。」これは教育に否定的な言葉ではなくて、むしろ教育がなぜ発達したかにつながる部分なのです。筆者は、子育ての延長が教育であると分析しているのですね。また、人間の子供はほかの動物と違い、憧れを持つことができる。未来を想像することができるとも書いています。ではその原因はというとそれはずばり共感力であり、その共感力を発達させた人間たちは向社会的行動をとるようになったと述べておられます。

ある意味、PAT共育ゼミナールがというよりも鍜冶個人が目指している方向性というのは子育ての延長としての塾だと考えています、年々、指導対象年齢を拡大しているのは、結局これをAにするためには、この段階でBまで進めておかないといけないよね。という成長のロードマップを通っている子どもたちそれぞれに作ってあげたいからなのだと思います。たしかに、学歴偏重のこの日本においては、レベルの高い高校や大学へ進学することがある意味重要であるとは思います。しかし、それが本当にその一人一人のプラスになるためには子供の持つ憧れを広げてあげないといけないだろうと思うのです。だから、どこの高校に行くとかは、札幌のしかも中央区の塾にとっては札幌南や札幌北にどれだけ入るかというのは重要だと思います。しかし、子供にとっての重要性や親にとっての重要性は塾にとっての重要性とはまた違う。親は自分の子をしっかり考えてほしいと思います。塾は次に来る生徒をより多くするために、よりレベルの高い高校に入れたいと考えます。その点で、発想の方向性が違う可能性を親としての私は考えるのです。私は長男に勉強に向いていないと思うなら高校行かなくていいぞ。と割と中1のときから言っています。ただすることにより広がる可能性などの話もしてはいます。以前と比べ、北海道でも40%以上が大学に行くようになりました。大学に行くことは普通のこととなっています。であれば、これをしたいという憧れとこれをしてきたという大学での実績がたいへん大きくものをいう時代になってきています。近い将来行われていく大学入試の制度改革もその点を踏まえたものになってくるはずです。高校入試はおおきな喫緊の課題ではあります。また、大学入試も同様です。しかし、本当にしたいことを見極めて進まないとミスマッチが起こるのは確実。その方が回り道になります。

私は、子育ての延長として塾でそれを伝えているつもりです。その子の話を聞き、それにあった目標設定をして、そこに至るまでの行程表を組んでいく。それが塾としてのPAT共育ゼミナールの役割と考えています。塾でそこまでする必要がないかもしれない。でも方針なので貫くだけです。この個性が合う人も合わない人いるかもしれないけれどね。結構、好評を得ているとは自負しています。

まずは冬期講習、少しずつお節介を積み重ねていきますよ。

改めての宣言ですかね。最後までお読みいただいてありがとうございました。

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